移動の進化を振り返る1〜歩いて移動していた時代・・原始・旧石器・縄文・弥生編

移動の進化を振り返る1〜歩いて移動していた時代・・原始・旧石器・縄文・弥生編

よく会話や歌の歌詞の中で、新しい文化・流行を作り出すという意図を込め、「ムーブメントを起こそう!」という言葉が使われますが、本来は「移動・運動」という意味を持っています。そして、他の動物に比べ圧倒的に移動能力で劣る人間は、知恵や文明の力によってさまざまな移動手段を手に入れ、そのたびに大きなムーヴメントを起こしてきたのです。

このシリーズでは、私たち人類が二足歩行で空いた両手に道具を持ち始めた時代から、どのように移動手段が変化してきたのかを解説します。

原始時代の移動は○○だった!

諸説ありますが「原始時代」とは、人類がいたって簡易な打製石器を使い始めた約330万年前頃から、最後の氷河期が終わる約1万年前まで続いた「旧石器時代」と、磨製石器が使用されていた「新石器時代(縄文・弥生)」までとされています。

人類史のほとんどを占める原始時代、当時の人々はどのような生活を営み、そして移動していたのでしょうか?

旧石器時代の移動方法と生活「初期(400万年前~20万年前)」

おそらく想像に難くないとは思いますが、旧石器時代における人の移動手段は徒歩のみであり、最初期の人類とされるアウストラロピテクスなどの「猿人」に関しては、まだおぼつかない二足歩行ではなく四足移動をしていました。

その後、何十万年もかけて二足歩行をマスターした「原人」は、次第に脊椎が伸び頭骨が発達したことで脳の成長が促され、自然石を加工し殺傷能力を高めた打製石器を用い、獲物を追い求めて遊動生活するようになります。また、彼らの身体能力は現在の人類よりかなり高く、簡易石器で動物を狩る優秀なハンターであり、人類による火の使用が最も古い説で約170万年前であることから推察すると、少なくとも200万年あまりの期間、原人は生肉を食べていたと考えられます。

さらに、この時代は現在まで継続している第4期氷河期に当たり、4万~10万年周期で表土全体が雪と氷で覆われていましたが、原人は獲物を取りつくしては次の場所へ徒歩移動、簡易な住処を構え火で暖を取り生き永らえたのです。

ちなみに、この頃の日本列島にはまだ人類やその祖先は存在せず、ユーラシア大陸と陸続きだった約500万年前頃やってきた、ナウマンゾウやオオツノジカなどといった、大型動物の楽園でした。

旧石器時代の移動方法と生活「中期(20万年前~4万年前)」

旧石器時代も中期に差し掛かると、肉食に伴うたんぱく質摂取量が増加したことからさらに脳の発達が進み、猿人・原人から進化したホモ・エレクトスやネアンデルダール人などといった、知能水準の高い「旧人」たちが登場し始めます。

彼らもおもに狩猟によって栄養を摂取していましたが、気候の温暖化に伴い氷河が後退、大型動物が北の寒冷地に去ったため、新たに狩りの対象となった猪・シカなどの肉を乾燥・燻製保存する技術や、釣り具を用いた漁などが発達します。また、狩猟のみだったものが山菜・果実・木の実などの採集が加わったことにより、性別による食糧入手の役割分担が始まったのはこの頃からでした。男たちは精巧になった石器を用いて獲物を狩り、女たちは野山で採集した植物を土器で調理するようになります。

その結果、旧人たちは魚介類を入手しやすい川沿い・海沿いへ移動し始め、遊動生活から徐々に半固定的な生活へと移り変わり、併せて条件の良い土地には少数ながら「集団」が形成されていきます。

そして、中期終盤に差し掛かると集団の規模は徐々に大きくなり、

  • 海産物を扱う集団
  • 乾し肉・燻製肉を扱う集団
  • 山菜・果物・木の実を扱う集団
  • 革製品を扱う集団
  • 鉱物や希少物資を扱う集団

と、集団ごとに個性が出始め、物々交換による「集団間貿易」が行われていたという学説まであります。いずれにせよ、保存技術の向上・半固定化・集団の形成という3つの要素が相まって、食糧欠乏期における供給安定性が増したことにより、獲物を求め長距離の徒歩移動をする必要が薄れました。生存率の上昇により総人口も約120万人へ増加しています。

つまり、旧石器前期と同様に徒歩移動であったことには違いありませんが、人生当たりの総移動距離が格段と短かくなり、男性と女性の歩行距離に差が生じ始めたことで、身体的特徴が現代人とほぼ同じになっていったのがこの時代です。ちなみに、現在世界的定説となっている「アフリカ単一起源説」によると、全人類の祖とされているホモ・サピエンスは、約7万年前頃からアフリカ大陸を飛び出し、世界中に移動していったとされていますが、アジア極東である日本にはまだ人類は渡来していません。

少し話が脇にそれますが、この時代を舞台にしたコメディアニメ、「はじめ人間ギャートルズ」では、ダチョウの祖先のような陸上動物に木製車両を引かせる乗り物や、石製の巨大貨幣が登場しますが、当然この時代に乗り物や貨幣文化は存在しません。

旧石器時代の移動方法と生活「初期(4万年前~1万年前)」

ヨーロッパやアジア、そして遠くはオーストラリアなどで、人類が生活していた証拠が出始めるのがこの時代であり、実は約5万年前あたりにホモ・サピエンスは、東アジアに到達していたと考えられています。

しかし、何百万年もの間故郷に引きこもっていた人類の祖が、短期間(と言っても数万年規模ですが)で世界中に散らばったのか、その謎を解明するメソッドは2つあり、1つは人口の爆発的な増加です。この旧石器時代後期に入ると総人口は約300万人に膨れ上がり、中期に形成され始めた集団が統合を繰り返して巨大化、集落(邑)や部族ができ始め、それぞれに指導者的な人物が現れるなど、現代に近い社会構造が確立してきます。すると、資源が豊かな土地を中心に共存体制が崩れ縄張り争いが勃発、争いに敗れた部族や平和的な思想を持った指導者たちは、新天地を求めて四方八方に「徒歩」での大移動を始めたのです。

もう1つの理由は、地球規模の温暖化によって海洋の氷が解け水位が上昇、大陸間は海で隔てられたため、徒歩では帰りたくても帰れなくなったことです。移住先で再び勢力争いに敗れてしまった部族は、さらに遠い土地へ徒歩移動をするしか手段がありませんでした。この縄張り争いと移動が数万年にわたり無限ループしたことが、地球的規模の民族大移動を生み移住地の風土・気候ごとに、独自の文化が芽吹きだしたのもこの時代です。

さて、日本列島に人類が初めて足を踏み入れたのもこの時代で、調査・分析が進んでいる国内遺跡から判断される渡来時期は、約3万8,000年ごろとされています。

大陸から日本列島への移動ルートは、

  1. 朝鮮半島から対馬→九州北部
  2. カムチャッカ半島から北海道
  3. 中国大陸から沖縄列島

という3パターンが考えられ、いずれの場合もこれまで凍結していた海上を徒歩移動してきたと考えられていましたが、近年の研究によって別の説が出ています。

国立科学博物館の人類史研究長「海部陽介氏」によると、人類が日本へ渡来した当時は今よりも寒く、海水が極地で凍り海面が下がっていたのは事実ながら、“入り口”になった3ルートのうち沖縄ルートに関しては、陸続きではなかった可能性が高いとのこと。じゃあどうやって海を渡ったのかと思われるかもしれませんが、その答えは「船」を製造して海上移動し、日本中に散らばっていったと考えられています。事実、沖縄には旧石器人の存在を示す遺跡が多数発見されています。

もちろん、カムチャッカ半島ルートの場合、沖縄よりかなり北に位置するため氷上を徒歩移動してきた可能性もあり得ますが、近年の研究で津軽海峡には氷河期の最寒期でも海が残っていたことが明らかになってきたため、遺跡が示している本州全土への拡大は無理なこと。また、朝鮮半島から対馬を経由したルートにしても、九州から沖縄へは船を用いないと移動不可能であることから、この説は俄然現実味を帯びてきています。

また、加工のしやすさなどから旧石器人が好んで材料にしていた、黒曜石という鉱石がありますが、本州にある約3万7,500年前の遺跡から、伊豆・神津島産の黒曜石が見つかったのです。つまり、日本人の祖先は船によって荒海を乗り越えただけではなく、渡来してすぐに巧みに船を操り豊富な黒曜石を探し出し産出、本州へ海運する高度な経済活動を行っていた可能性が高いという訳です。

新石器時代その1縄文時代(1万年~紀元前3世紀頃)

約1万年前に最後の氷期が終焉すると、ナウマンゾウやオオツノシカなど動きがスローな大型動物は姿を消し、動きの素早い小型動物が増殖。そのため、徒歩に頼る狩猟はいよいよ困難になってきます。

海外では、野生動物を捕らえ飼育し増やすことによって、必要な時に食べられるようにする「牧畜」や、食用植物を選別し栽培する「農耕」が始まり、家畜の解体や土地の開墾に用いられた摩擦石器の別称「新石器」から、この時代を新石器時代と呼びます。同時期の日本は土器の文様から名付けられた縄文時代に差し掛かりますが、海外同様、磨製石器も出土しているため、初期中期には牧畜や農耕がそれほど発達せず、もっぱら魚介類が主食になっていました。

その一方、海産資源や山林資源が豊かな日本では海外より早く定住化が進み、地面を円形や方形に掘り窪め複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせ家の骨組みを作り、その上から土・葦などで屋根を葺いた「竪穴式住居」が登場。約6千年前頃までには定住化が進み、旧石器時代のような長距離にわたる徒歩移動はほとんどなくなっていたのです。中期に差し掛かると集落の規模はさらに大型化し、クリを植林して食糧を確保する農法や、近海・淡水漁業も発展します。また、長年にわたって大量の貝を食べ捨てていたことを示す大型貝塚が海岸沿いで多数見つかっていることからもわかる通り、狩猟に伴う長距離の徒歩移動がめっきり減り、定住地周辺だけで生活を営んでいたのです。

縄文時代にも旧石器人が日本への渡来で使用した可能性がある、草編み船より丈夫なカヌーの原型が作られていたそうですが、移動手段としてではなく漁具の1つという立ち位置でした。後期・末期には、海や川がない内陸地でも大型貝塚が発見されているため、海岸部や河川沿岸で貝を入手した縄文人が、陸路を徒歩で内陸集落に運び山野資源との物々交換をしていたとみられます。

新石器時代その2弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀頃)

 

日本で言う弥生時代は、約600年余り続きました。何万年単位もの旧石器時代や、約8,000年以上続いた縄文時代と比較するとやや短いこの時代は、日本の移動史が大きく変革するきっかけとなった時代でもあります。

縄文時代末期、朝鮮半島や中国から青銅器・鉄器といった「金属器」が伝来すると、同時期に伝わり始めていた稲作が一気に広まり、北部九州から西日本一帯へ、現在とほど近い水田農法が300~400年近くかけて普及していきます。

水田農業に必要な治水、灌漑(かんがい)といった共同作業のために「村」ができ、それを統率する首長があらわれ、村同士は争い統合しながらやがて小国となり「王」が誕生。縄文時代までの集団「邑」は少ない食糧を分け合いながら、つつましく暮らす運命共同体でしたが、この頃から水田の広さや米の備蓄量による貧富の差が生じ、富める者は支配者、貧しいものは支配される側という階級分けが始まるのです。小国の支配者たちは、「輿」のようなもので人力移動していた形跡もあり、船による海運も行われていましたが、依然として日本における移動手段は徒歩。

この時代、海外ではすでに牛・馬を用いた馬車などが登場しているほか、中央アジアではモンゴル騎馬民族によって「ハミ・鞍」などの馬具が開発され、直接馬に騎乗し大陸を駆け巡っていたことを示す史跡や資料も多数存在します。

一方、現時点で弥生時代に存在していたことが確認されている家畜は、豚(弥生豚)・鶏。「魏志倭人伝」によると紀元3世紀の段階で、日本には牛・馬がいなかったと記されており、3世紀後半から始まる「古墳時代」に揃ってやってきたと考えられています。

ポイントとなるのはこの牛・馬が日本にやってきた時期です。すでに数えきれないほどの個体数があったため、食用にされることも多かった他国と異なり、牛や馬は豚・鶏とは比べ物にならないほど貴重な生き物として扱われたのです。

弥生時代から始まった階級分けは、牛・馬が数十頭単位で伝来したころにはほぼ確立しており、王族に極めて近いような立場でもない限り、触ることはおろかこうした家畜を見たこともない民が大多数でした。さらに、日本は海外より水田稲作が発展し、動物性たんぱく質や塩分・ミネラルなどの摂取も海産物で十分に補える状態だったため、貴重な牛や馬を食べるという習慣が、土着しなかったのです。

その結果、牛は身分の高いものを運ぶ「牛車」や、富める者が所有する広大な水田を耕す「農耕牛」として使われ、日本では食用ではなく子牛を増やして乳を採取する「酪農」のほうが広まっていきました。牛は役目が終わると民に下され食べられることもありましたが、馬に関しては王の墓である「古墳」から、副葬品である「埴輪馬」が出土していることでもわかる通り、庶民が乗る動物でも、食用にする動物でもありませんでした。

人類移動の進化を考えるとき一番フューチャーすべきなのは、「食糧確保」という生命維持活動と、食糧を調達するため「移動すべき距離」との関係性です。稲作が急発展した弥生時代のおかげで、日本人は騎馬民族のように獲物を狩るため馬で荒野を駆けまわることも、牧羊民族のように飼葉を求め遊牧することもなく、生活を営むことができたのです。

つまり、弥生時代に「水田農法」が普及し、それが根付いたことで、「農業・漁業・酪農」を中心とした和食スタイルが確立。その結果、当時の支配者階級は食糧確保という政権維持の大命題を果たすため、牛はともかく馬の飼育を広めませんでした。

まとめ

これまでの地球の歴史を1年として考えたら、現代を生きる私たちの歴史はわずか「7時間半」ほどでしかなく、そのほとんどを人類はほぼ徒歩のみで移動していました。

そして、新石器の終盤になってようやく人類は、馬という移動手段を手にしますが、日本の場合は人類史において「4,4秒」という一瞬に過ぎない、弥生時代での稲作普及によって移動手段としての馬の利用は、長くごく一部に留まることとなります。

しかし、馬移動が普及しなかったことこそ、現在日本が世界におけるモータリゼーションの中心に位置している大きな理由となっているのです。

 

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