移動の進化を振り返る その3〜 陸上から水上へ…船舶の登場による劇的な変化とは

移動の進化を振り返る その3〜 陸上から水上へ…船舶の登場による劇的な変化とは

諸説あるものの、陸続きだった約2億年前ごろまでの地球では、鳥類以外の生物も陸上移動することが可能でした。しかし、人類の祖先が登場する頃にはほぼ現在と変わらない、7つの海によって各大陸は隔てられていたのです。同じ大陸内でも、到底人間では泳いで渡れない大河はもちろん、中小限りない数の河川が存在しますが、道具を操る人類は「船」という新たな移動手段を生み出し、文明を大きく発展させました。

移動の進化を振り返るシリーズ第3弾は、船が誕生した経緯と進化・普及によってもたらされた人類史の劇的な変化について詳しく解説します。

移動手段が船に~人類は登場と同時に船を操っていた~

どこから“船”と呼べるのかは、見解に相違がありますが、人類は火や石器を使用し始めたころから、すでに水に浮く丸太にまたがって河川を渡ったり、濡れると腐敗スピードが早まる穀物などを、浮草を編み込んだ「船のようなモノ」に載せたりして、水上移動していたと言います。明らかに乗り物だといえる船が登場したのは先史時代。丸太をくりぬき、先をとがらせたカヌーがその先駆けで、当時の遺跡から多数のカヌーが発見されています。そして、その中には獣皮を張り、防水性に優れた現在のシーカヤックに似たものも存在したとされています。

一方、カヌーの材料となる大木が少ない古代エジプトでは、パピルスを編み込んだ「いかだ」でナイル川を水上移動していたらしく、紀元前4000年頃には早くも原始的な帆が用いられ、紀元前3000年頃には古代エジプト人が地中海を航海していたそうです。

また、オール(人力)と帆(風力)を組み合わせたり、舵を備え始めたりしたのもこの頃から。同時期に発展していたメソポタミア・インダス・黄河文明でも、同様の帆船が普及しており、国内では縄文後期の遺跡から外洋航海に耐えうる大型船が発見されています。なお、1945年にクフ王のピラミッドから出土した「太陽の船」は、推定全長43mとされている世界最古の木造大型船。クフ王のピラミッドが建設されたのは紀元前2500年とされており、大きな木が育たない環境にあった当時のエジプトで、これほどの大型木造船をどうやって作ることができたかについては、いまだ謎のままです。

より安全に遠くへ速く移動するために~中・大型船の登場~

紀元前1500年ごろになると、船体の両側に多数のオールを備えたガレー船が登場し、風が弱く安定しない地中海を中心に、猛烈なスピードで普及していきます。エネルギー効率に優れ、乗員も少なくて済むため、交易や物流など商船に適している帆船とは違う使われ方をしていました。ガレー船は多くの船員が乗船し機動力に優れることから軍船利用され、弓や投石機などの兵器を備えながら大型化し、16世紀まで同地方の主要戦力を担うことになります。

一方、帆船も時代が進むにつれ大型化し、1世紀に入ってインド洋の季節風を利用した遠洋航路をローマ人の航海家・ヒッパロスが開いて以降、大陸を超えた海上交易に活用され始めます。

地中海以外の地方に目を向けると、古代中国では3世紀頃から宋代にかけ、木造帆船のジャンクが普及し、日本史で学ぶ遣隋使・遣唐使などを乗せ中国大陸へ渡った船も、このジャンクを元に製造されたものです。また、8~10世紀の北欧ではヴァイキングと呼ばれていたノルマン人たちが、独自開発した頑丈で攻撃力のある軍用帆船を駆り、西ヨーロッパ海の沿岸部を支配していました。

まだ見ぬ新大陸への進出~大航海時代の到来~

15世紀に入り、戦争による領土分割が終結を迎えたことで、ヨーロッパ列強諸国は自国の勢力を伸ばすためさらなる遠洋に打って出るべく、熾烈な船舶開発と技術向上競争を始めます。それを先んじたのはスペインとポルトガル。大量の食糧や交易品を搭載可能な大型帆船「キャラック」を生み出し、王室の援助を受けた両国の航海家たちは、アフリカ西部へ次々に植民地を意味する自国の旗を掲げていきます。

これはいわゆる「大航海時代」の幕開けで、コロンブスやバスコ・ダ・ガマ、マゼランなどが活躍したのもこの頃です。キャラックを発展させた「ガレオン」は、軍艦としても利用され、インド・東南アジア・新大陸における欧米諸国の覇権を左右する存在に。この時点で、キャラックおよび大型ガレーは地中海及び西アフリカでの交易・海戦に、ガレオンは大陸間交易・海戦と未開の地への探検航海に、それぞれ役割を持って利用されます。

この時代、日常的な物流や交通は人力や馬車などによる陸上輸送が主力であり、河川や近海で中・小型船が用いられる程度でした。また、この頃日本は室町から江戸初期にあたります。1549年の鉄砲伝来をもって大航海時代の余波が訪れたとするなら、現在の戦艦・タンカーにあたる「安宅船」や、巡洋艦・フェリー相当の「関船」、船速に優れる「小早」が軍事・商用双方で運用されていました。

本来であれば、東南アジアや東アジアを経てやってきたヨーロッパ勢力に、アフリカやインド同様、あっという間に植民地化されそうなものですが、オランダ以外の国との貿易及び国民の海外往来を禁止する鎖国政策、長期間・長距離航海になるためガレオン級の大量派遣が困難、アフリカの鉱石や東南アジアの香辛料など有力な交易品が存在しないことなどが功を奏し、独立を維持することができたのです。

ただ、このことによって船舶製造・航海技術が立ち遅れたことも事実。鎖国によって外洋船が必要なくなった日本では、1635年、幕府によって「大船製造禁止令」が施行され大型の安宅船が消滅、関船以下の中・小型船が主に普及することとなります。

ちなみに、大航海時代に種子島へ伝来した鉄砲ですが、関ケ原の合戦当時国内には6万丁存在していたらしく、これはヨーロッパ全体の保有数数全てに匹敵するうえ、性能的にもまったく引けを取らない水準だったのだとか。このことは日本人の優れた模倣能力と応用力を如実に示すエピソードといえますし、巨大帝国を築いていた列強が日本の植民地化を断行しなかったのは、多大なリスクを冒し艦隊を派遣しても勝算が低いと判断したからといわれています。

人力・風力から蒸気機関へ進化~黒船来航と日本への影響~

大航海時代の荒波を乗り切った日本は、「太平の世」と称される江戸時代を迎えます。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)、たった四杯で夜も眠れず」という、幕末に流行した狂歌をご存知の方も多いでしょう。「上喜撰」とは高級宇治抹茶のことで、浦和に現れた「蒸気船」、つまりペリー率いる黒船艦隊とお茶の覚醒効果をひっかけ、たった4隻(うち2隻が蒸気船)の来航で夜も眠れないほど慌てふためく幕府を皮肉ったもの。

ボイラーで発生した蒸気の熱エネルギーにより、スクリュー・プロペラを稼働させ推進力にする蒸気船は汽船とも呼ばれ、1783年にフランスのクロード・ジョフロワ・ダバンが制作・実験航海した蒸気船が世界第一号とされています。人やモノを運搬する実用的な乗り物となるのは、1809年に米国の発明家であるロバート・フルトンがハドソン川で乗客の載せた試運転に成功して以降です。

ただ、初期の蒸気船は浦賀に来航した黒船と異なり、船体の両側に取り付けた巨大な水車を蒸気機関で回し推進する外輪船で、もっぱら国内の河川や沿岸を運行するのみでした。外洋航海については大型帆船に頼っていたのです。そのため、露出した強度に劣る外輪を砲撃などによって破壊されるとたちまち運行不能に陥るため、文明の進歩に図らずも寄与する「軍事目的」での普及がなかなか進みませんでした。

その後、1830年代に「スクリュー・プロペラ」が発明され、スクリュー式蒸気船が数隻イギリスで製作・実証実験が行われます。中でもスウェーデン人であるジョン・エリクソンが製作した船舶は、100トンの石炭運搬用はしけ4隻を5ノットで曳く実力を示しました。

しかし、当時の英国海軍高官たちはスクリュー推進軸用の穴が、水面下の船体に空くことへ嫌悪感を抱き、直進性能の欠如や風に対する不安定さなどの理由から英国軍艦への採用を見送ったのです。

スクリュー式蒸気船が、軍用として台頭を始めるのは1840年代後半に差し掛かってからで、まず既存軍艦の改装から着手され、1952年には生粋のスクリュー式蒸気軍艦である「アガメムノン号」が英国海軍で就役することになります。

ここで再び黒船来航に話を戻すと、1853年に浦賀へ入港した米国艦隊の旗艦・「サスケハナ号」及び、もう一隻の蒸気軍艦「ミシシッピー号」はどちらも、帆走と外輪型蒸気機関を併用したフリゲート級の軍艦です。これらは耐並性に乏しい外輪船で、はるかアメリカ大陸から極東の日本までよく辿り着けたというべきですし、戦列艦級のアガメムノン号より戦力も劣るため、そんなにビビらなくとも当時の幕府海軍なら、砲撃や奇襲によって撃退することも可能だったはず。

しかし、2度の来航に恐れを抱いた江戸幕府は1854年、日米和親条約を締結し下田と函館が同国に開港され、200年以上続いた鎖国は終焉を迎えることになります。同条約は極めて米国側有利であるため歴史的評価が分かれるものの、後に暗殺される大老・井伊直弼や、最後の将軍となる一橋慶喜らが中心となった開国政策により、尊王・攘夷派が急速に動きを強めた結果、日本は一気に明治維新へと進んでいくのです。

高度経済成長と船との関連性~第二次世界大戦後から現在~

19世紀末に英国のエンジニア、チャールズ・A・パーソンズによって、振動や騒音が少なく、熱効率の高い「蒸気タービン」が発明され、同時に燃料が石炭から重油へ移行します。

国内交通や物流分野では、中規模船ならば根強く今日まで生き抜いていますが、大型の帆船及び外輪型蒸気船は商用・軍用共に外洋から姿を消し、第一次大戦後はタービン式が主流になっていきます。

また、軽量かつ大きな推進力を発生するディーゼルエンジンの誕生と普及で、船体の素材も木造から鉄製へと変化し、1890年には日本初の全鋼鉄船「筑後川丸」が、三菱造船所で建造されました。この頃には、国内外問わず大型蒸気船が海運の要を担うようになってきますが、第二次世界大戦により日本は、「大和」を始めとする大型軍艦や多くの軍用船と、約80%の商船を戦火で消失することになります。

終戦後は、GHQによってわずかに残った100トン以上の船舶が、すべて管理下に置かれたうえ、国内における総造船能力も制限されましたが、1950年代に勃発した朝鮮戦争や中東動乱を機に規制が緩和されると、高度経済成長を牽引する造船ブームが到来。1万トンを超える外航客船や大型タンカーやコンテナ船、自動車を搭載する大型フェリーなどが次々に製造され、1956年には我が国の造船量は英国を抜いて世界一となり、70年代中盤には世界へ送り出される船舶の約50%が日本製に。

その一方で、1960年代後半からは航空機による海外渡航が一般化したため、旅客輸送手段としてのニーズは年を追うごとに激減の一途をたどります。一部のクルーズ船を除き、外航航路の客船は消滅。これは世界共通の傾向といえますが、国をまたぐ規模の大河が存在する海外と比較すると、小規模規模の連絡船やカーフェリーなど以外に旅客を目的にとして採用される国内船舶はほぼ存在しません。

しかし、以前として物流業界における船の利用価値は高く、近年は舵を自動保針する「オートパイロット機能」を備えた大型輸送船が多数海を往来しているほか、遠洋・近海・淡水問わず漁業を営むうえでは必要不可欠な存在です。また、他の交通インフラが整っていない地方では、いまだに船は貴重な移動手段であることに変わりなく、アマゾン・ナイル・黄河などの流域や、多くの小島で構成されている東南アジアやミクロネシアなどにおいては、小型帆船やカヌーも活躍しています。

まとめ

遠い昔、陸上動物に過ぎない人類は持てる知恵と道具を駆使して、「文明の利器」である船という画期的な移動手段を発明して、改良に改良を重ねることで大陸を飛び出し、世界史を大きく動かしてきました。今後もモータリゼーションの普及や動力・燃料の進化に伴い、求められる「役割」が変化していくでしょうが、人類は船という海上移動手段を観光、移動手段など、多様な形で利用し続けるのでしょう。

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